北陸鉄道、七尾線、氷見線、万葉線

 まだ朝が早いせいかもしれない。町が静まっている。風景が止まっている。人が歩いていない。車も走っていない。動きが何もないだけじゃなく、空気さえ流れを止めているようだ。音もない。
 狭いわけじゃないけど、たいして広くもない駅前広場。そこへアイボリーとオレンジで塗り分けられたバスが一台、大きくハンドルを切りながら入ってきて、静止画のような風景をかき乱す。ぐるうっと右回りして駅の入口に横付けすると、止まってエンジンを切った。また風景が静止画のようになる。あるいは、原寸大の彫刻のような。そんな、小さな町。

 

 私は昨日のうち、福井から金沢へやってきた。ここは、野町。金沢駅前の目抜き通りから近江町市場を横目に、香林坊という繁華街を抜けて犀川を渡る。強烈に鮮やかで刺さるように賑やかな街から一直線につながる国道157号、そこからわずか200メートル道を外れた場所だ。
「野町湯」と縦に書かれた古い看板は銭湯らしい。奥に古びた越屋根と、つぎはぎだらけの低い煙突が見える。未完成という名の喫茶店が角に建ち、まだ開いていない。昭和をテーマにした精巧な鉄道模型ジオラマのような駅前だ。まるで模型とリアルが逆転しているかのよう。素敵というか素晴らしいというか、懐かしさというかデジャヴというか、ともかく立っているだけで震えそうだ。バスはエンジンを切ったまま動き出すようすを見せない。自転車駐輪場はなんでこんなにというほど、ぎゅうぎゅう詰めに自転車が止められている。そんな静止画。私はジオラマに置かれたパーツ、「人物A」。
 できるならその喫茶店に入ってコーヒーを飲みたい。モーニングがあるなら食べてこの風景を眺めていたい。でも窓ガラスの奥の漆黒の店内と扉の前に片づけられた立て看板からそれがかなわないこともわかる。それに、そろそろ電車の時間だ。今日はここ、北陸鉄道石川線から旅を始める。

 

***

 

f:id:nonsugarcafe:20200924124812p:plain


 

 

 「鉄道線全線の一日フリー乗車券をいただきたいのですが」
 私は窓口のガラス越しに声をかけた。ちなみにガラスに開けられた会話用の丸い窓を"ビデオフォン"と呼ぶのだと、最近になって知った。不思議な名前だ。
「こういう金箔の?」窓口の女性は見本を見せてくれた。本当に金箔なのかどうか、でも金色に光り輝いている。すごいきっぷだ。
「今日は土日だから、石川線のフリーきっぷっていうのがあるけど、それじゃなくて? 浅野川線のもあって、両方買っても全線のきっぷより安くなるんだけど」
「えっ、そうなんですか」私はフリー乗車券とは別にそんなきっぷがあることなど知らず、慌てた。
「でも記念になるからってこっち(手に持って見せてくれている金箔のフリー乗車券)を買う人もいますよ。あとあっちのは金沢駅で買わないとならないから、いちいち面倒ではあるしね」
「なるほど」私は考えた。土日祝限定の一日フリーエコきっぷというらしく、石川線が500円、浅野川線が400円だそう。千円の金箔の一日フリー乗車券より百円安い。
「──じゃあ全線のフリー乗車券をいただきます」私は記念とか、一度買えば済む手間のほうを選んだ。
「そうね、また向こうであらためて買うのも面倒だしね。じゃあ、千円になりますね」
 そういうと女性は金箔のきっぷの裏側に大きな日付印を押した。
「なんだかごめんなさいね、押し売りみたいになっちゃって」
「いえいえ全然、そんなことないです」
「もうすぐ電車が来ますからね。降りる人がみんな出て、準備が出来たら改札しますから、この辺で少しお待ちくださいね」
 わかりました、と私はいい、金箔のきっぷを受け取った。
 それから私はまた駅を出て周りをぶらぶらした。線路に向かって、歩く人しか通れないほどの狭い道が続いているのを見つけた。その道は先で線路を横断している。踏切警標クロスマークが立てられているだけの、遮断機のない踏切だった。「とまれみよ」と書かれている。その踏切に立つと、駅をホーム側から一望できた。といっても小さな小さな駅で、ホームはせいぜい2両しか止まれない短さだった。ホームの反対側には線路がもう一本と対向のホームがあるけれど、その線路は踏切で途切れていて、本線にはつながっていなかった。かつてはポイントでつながっていたんだろうけど、用済みになって外されてしまったのだろう。2番線の標識が下がったホームには草が生えていた。
 やがてゴゥゴゥと音を立てて電車が狭いカーブを曲がってきた。
 井の頭線か……。
 銀色に鈍く光るステンレスボディはかつて渋谷を走っていた。正面二枚窓のフェイスだけ色が塗られていて、それが編成ごとに違うものだから面白いなと思っていた。水色やクリーム色、ピンクや薄紫……淡い色が多かったように思う。それが今ここで入ってきた電車はオレンジ色に塗られている。編成は二両。徐々に減速を重ね、止まった。本当にホームの終端いっぱいに止まっていた。車両を並べてわかる、こんなに短いホームなんだ。
 私は止まった電車を小さな踏切から眺めていた。電車というとても大きな機械なのに、なんだかちっぽけに見えた。駅だって、町の一区画にぎゅうぎゅうに押し込められて小さくなっているようだった。きゅうくつな曲線の線路とホームが余計そう感じさせた。電車はどこか懐かしいコイルばねの台車に替えられている。あとの変化はよくわからない。井の頭線ってそれほど馴染みのある路線ではなかったから。
 乗客がすべて改札を出て、乗務員も引き上げると、眺めることをやめて私も駅に戻ることにした。駅から出てきた人はそれぞれの方向へ向かったりバスに乗ったりした。それとぎゅうぎゅうの自転車置き場に行き、自分の自転車を引き出す人もけっこういた。なるほど、ここに置いてある自転車は電車でここまで来てさらに先に行くために使われているんだ。例えばここから金沢の中心街とか。ここの自転車置き場は夜がいっぱいで日中は空くという、よくある駅前の自転車置き場とは逆の動きに違いない。
 駅舎に戻ると改札が始まっていた。いつのまにか人がたくさん集まっていて、並んでホームに入っていく。私も改札を抜けるのにきっぷを出そうとすると、「どうぞ~」ときっぷも見ずにそのまま通してくれた。改札は、さっき金箔の一日乗車券を売ってくれた女性だった。
 定刻になり発車。町の片隅の急カーブを低速で走り始めた。左右の家々が近い。軒や壁をかすめるように走る。そう思ってた途端、どこかの家の生け垣や植栽がバサバサバサっと車体をこすった。私は少しびっくりしたが、運転士も周りの人も誰も驚くようすがなかった。線路は直線になったが、表面にゆがみの出ている貧弱なレールで、電車は車体を左右に揺らしながら低速で走った。
 新西金沢駅に着く。JR北陸本線西金沢駅との乗換駅で、唯一の他線との接続駅だ。JRがコンクリート製の大きくて小綺麗な駅であるのに対し、北陸鉄道は昔ながらの簡素な駅。でも電車を待つならこういうホームで待つほうが楽しそうだ。
 ここで10人弱の人が降り、15人くらいの人が乗った。
 新西金沢を出ると進路を90度変える。この路線、カーブを曲がるとなるととても急カーブだ。そして相変わらず路地のあいだを抜けていくような線路で野々市ののいちに着いた。市の名前(野々市市)を名乗るのに、単式の片面単線ホームの小さな駅だった。
 額住宅前ぬかじゅうたくまえで列車交換。かつて私が日比谷線で良く乗っていた東急の7000系だった。窓上の急行灯も健在。頑張って走っている。しかしこうしてみると地方の私鉄は東急と京王の車両が本当に多い。私の最寄りの東武の車両は地方を走っている例などひとつもない(おそらく)。
 次第に郊外の私鉄路線らしい風景になる。家々が規則的に並ぶ住宅街のあいだを走り、やがて緑も多くなってくる。読み方の難しい駅や、音から聞いて漢字の思い浮かばないような駅ばかりを連ねて、終点の鶴来つるぎに着いた。
 木造駅舎は全体形状や壁、装飾なんかが洋風であるのに、屋根に瓦を乗せているものだから和風に映る。個性的な駅舎は居心地がよさそうだ。ここもまた短いホームで、構内踏切でつながったそれが二本、その奥に車両基地が広がっている。眺めてみると東急の7000系ばかりだ。中間車を先頭車に改造したのっぺらぼう顔のやつもいる。無機質な切妻に窓を付けただけの、福島交通や青森の弘南鉄道にいるのと同じだ。しかも額に方向幕がなくて、のっぺらぼう感がひどい。各地方でこの顔を見ると、かつて国鉄で153系準急電車の設計を担当していた星晃が技師長の島秀雄からいわれたひと言を思い出す。「変な恰好のものを作ってはダメですよ」
 私はひとしきり駅舎や車両基地を眺めたあと、駅前からの道を歩き始めた。十数年前に廃止された加賀一の宮駅がそのままの姿で残されているというので行ってみる。
 高い建物はない。ほとんどが揃えられたように二階建てで、ときどきビルのような恰好をして三階建てだったりする。歩いている県道が商店街になっていて、ちょっとした街道筋を歩いているようだ。でも古いものもあれば新しいものもある。私は時代時代を反映したこういう町なみが好きだ。昔の街道宿場町など伝建地区として古い建物をそのまま残している町も好きだが、こういう町はストレートに生きざまを映し出している感じがする。時代時代を生き抜いてきた感じがする。造り酒屋や味噌蔵や商店など古くからの建物を残しそのまま営業している店もあれば、最近のデザイン建築風のクリニックなんかもある。昭和そのものの洋品店や金融機関のビルなどが、時代を越えて渾然一体となって並んでいる。
 かくして加賀一の宮駅に着いた。
 きれいだった。
 古い建物だ。板壁の木造で入り母屋の瓦屋根を乗せ、とにかく重厚なオーラを放っていた。廃線・廃駅となって取り壊されるはずだったろうが、熱心に保存活動を行っているに違いなかった。板壁は黒光りするように磨かれ、白壁はどこまでも白かった。駅舎内も隅々まで掃除が行きわたり、中の壁も同様に汚れなく白かった。これだけの保存をしているのは大変な努力であろうことは容易に想像がついた。活動によってこの駅舎を見ることができるのは感謝の言葉しかないけれど、あえてひとり言をもらすなら、生きている感じがしなかった。駅として稼働していたときはきっと薄汚れていただろう。駅舎内はどことなく埃っぽく、人が行き来すればちりが舞って小砂が吹き溜まっていたはずだ。板壁も白壁も風雨を受け、白っちゃけ黒ずみが出ていただろう。保存の努力に敬意を表しつつも、私にはきれいすぎる存在が死に化粧のようにも思えた。
 線路は舗装されサイクリングロードのようになっていた。駅のさらに先まで続いているようだった。この先、金名線という路線がさらに15キロ以上続いていたという。私のまったく知らない北陸鉄道の姿である。

 

***

 

 金沢駅に出た。もてなしドームから鼓門にかけて、多くの人が見上げ、写真を撮っていた。旅行パンフレットのイメージ写真にも必ずといっていいほど登場するし、今や金沢の顔といってもいいんだろう。
 私はエスカレーターで地階へ下った。といっても光が多く差し込む半地下のような構造で、地上階と違い人の往来もあまりなかった。だだっ広い地下広場といった感じだった。一角でダンスを練習している女の子のグループがいた。その左手奥に北陸鉄道浅野川線北鉄金沢駅があった。
 改札口のすぐ先にホームがつながっていて、頭端式ホームに二本の線路があった。私は朝、野町駅で購入した金箔の一日フリー乗車券を見せてホームに入った。両方のホームにそれぞれ電車が止まっていて、いずれも石川線で私が乗った京王井の頭線の電車だった。フェイスの色も同じオレンジで統一されていた。
 ホーム右の列車にみな乗り込んでいく。左の列車は明かりも消していて少し不気味な雰囲気。よく見ると片引き扉の車両だった。井の頭線でも初期の頃の車両で、中期以降は両引きの扉の車両が造られた。右の今度の内灘行きは両引きの扉だった。あっちに乗りたいなあと思う。しかしながら明かりがついていないどころか、パンタグラフは下げられ電源も入っていない。残念だけど。
 電車は発車するとすぐに地上へ出た。地下駅といってもじつに浅い地下なので、それほどの助走距離を持たずしてすぐに地上へ出る。それでも鉄道が地下から地上へ出るときのワクワクする感じって、ある。
 線路はこの路線名にもなっている浅野川に沿って進む。が、川には築堤があり、線路はその下を走っているので、川のようすをうかがい知ることはできない。見えるのは、土手の側面ばかりだ。浅野川沿いの大河端おこばた駅までそれは続く。
 浅野川を離れるとひょいと方向を変えて、粟ヶ崎駅手前で鉄橋を渡る。大野川を渡る大野川橋梁である。橋はきゃしゃな上路ガーダー橋で、なにしろ川の水面ぎりぎりを通る。窓から見下ろすとレールも枕木もプレートガーダーも見えないから、川面すれすれを浮いて走っているように見える。わずか20分ばかりで終点の内灘に着いた。
 内灘駅石川線鶴来駅のと同じように何本もの引き込み線が敷かれていた。そこに車両が留置されていて、すべて井の頭線だった。石川線にいた東急7000系はいなかった。オレンジ色の北陸顔ばかりが並んでいて、これで統一されているのだろうか。
 そういえば私には馴染み深い、地下鉄日比谷線を走っていた03系がここ北陸鉄道にもやってきたというニュースを見たことがあったけど、どこにいたのだろう。どちらの路線でも見かけなかった。見落としただけかもしれないけど。
 私は内灘駅前周辺をうろうろしていたが、退屈さもあって大野川橋梁のたもとの駅、粟ヶ崎に歩いてみることにした。距離にしたら知れている。線路沿いに道があったのでこれを歩いていく。次に乗る七尾線のこともあって、乗ってきた電車で折り返す必要があるのだけど、このひと駅間なら追い越されることはないはず。
 乗って通り過ぎるのとこうして線路の脇を歩くのはまた印象が違う。鉄錆で茶色くなったバラストもレールも乗っていたら気づかないし、レールの細かなゆがみやヨレが電車の揺れを起こすんだなっていうのをこうして別の視点で実感する。乗っていながら揺れを感じれば、これはレールもきゃしゃでゆがみやヨレが出てるんだろうなあと思うし、こうして線路を見ると、このくらいの速度で電車が走ると横揺れを起こすんだろうなあと思う。
 粟ヶ崎の駅は大野川の川端にある。狭い場所に無理やり駅を押し込んでいて、ホーム先端は川にはみ出しているんじゃないだろうかと思うほど。歩いてきた並行する道路も並んで川を渡っている。こちらは機具はたぐ橋という。この橋から川や鉄道橋のようすを眺めようと思ったが、2.5トンの制限橋でその割に交通量が多く、車同士のすれ違いに気を使う幅員は緑にペイントされた路側帯を歩いていてもおっかなかったので、四分の一ほど渡って引き返した。と同時に駅の脇の踏切が鳴った。この返しの電車に乗らないといけない。私は急いでホームへ向かった。この橋梁を渡る電車の写真を撮ってみたいなと衝動に駆られるも、このあとの七尾線を逃せば行程が一時間単位で崩れていく。やむを得ない。
 粟ヶ崎駅は駅舎のないホームだけの駅で、道路からの緩い階段でホームへ上がる。何か置かないとという義務感で造られたような小さな待合小屋があるだけの駅。ホームも石川線野町駅で見たように二両編成が止まればもう前後いっぱいいっぱいだ。年季の入った井の頭線の鈍色ステンレスが止まり、ワンマン乗車位置の扉が開く。私は全線一日フリー乗車券だったが、定期券・回数券の方も整理券をお取りくださいと書いてあったので、念のため整理券を取った。私が乗るとすぐに扉が閉まり、大野川橋梁をのそのそと渡り始めた。

 

***

 

 金沢駅は新幹線も来るだけあって小ぎれいで機能的な駅だった。しかしながら地方都市にあるありきたりな高架駅でもあった。私は七尾までのきっぷを買う。残念ながら七尾線パスモでは乗ることができなかった。きっぷを自動改札に通していちばん端の階段を上がると、ホームでちょうど、七尾行き普通列車が三両編成で入りますと放送が響いていた。
 やってきたのは国鉄時代の415系という車両だった。七尾線の深いエンジ色一色に塗られた車体は、かつて常磐線を走っていた415系がローズピンクに塗られていた頃を思い出させた。半自動扱いの乗降口扉は関東の115系のように重たい手動ではなく、開閉ボタンが付けられていた。セミクロスシートの構成は変わっておらず、それがぼちぼち埋まる車内にひとつ、空いたボックスを見つけたのでそこに座った。そろそろ発車かなあと思い待っていると、向かいのホームに大阪からの特急サンダーバードが着いた。みな駆け出すように一斉にこちらへ乗り移ってくる。そうしてぽつぽつ空いていた座席が埋まった。私のいるボックスにも関西弁を話す夫婦が座った。
 津幡まではかつてのJR北陸本線、現在のIRいしかわ鉄道を走る。新幹線の開業によって並行在来線が経営分離されたパターンだ。といっても北陸本線時代との違いは感じない。乗っている車両も国鉄時代のものだし。えちごトキめき鉄道のように車両をみな気動車に置き換えてしまっていたのなら印象も異なるかもしれない。
 津幡からはJRの路線になる。IRいしかわ鉄道の列車ではない、高岡・富山には行かないと再三放送しているが、特に耳を傾ける人もいない。同じボックスの夫婦はなんでこんな電車で行かなくちゃならないのかと妻が夫を問い詰めていた。もう三度目だった。そのたびに夫が特急は一時間待たないとならないからだと答えている。そんなに待てないだろう? という。ふたりとも高級時計やきらびやかな宝飾類をいかにも、、、、つけている。でもなにもこんな電車でと妻が続ける。それをいうたびに「確かに」と私も内心思う。和倉温泉まで直通のサンダーバードを選ぶべきだったんじゃないか。
 津幡を出ると、交流電化のIRいしかわ鉄道から直流電化のJR七尾線に入るためデッドセクションを通過する。車掌も「車内の照明が消えます」とアナウンスしている。415系デッドセクションを通過するのはいつぶりだろう。私の近いところでは常磐線の取手-藤代間と、水戸線の小山-小田林間、つくばエクスプレスの守谷-みらい平間などあるが、JR東日本からは415系などずいぶん前に引退してしまったこと、それ以降の車両は明かりが消えることがないから、久しぶりに懐かしい体験ができるってことだ。つくばエクスプレスに関していえば、開業時から明かりの消えない車両を導入しているので、それがあることすら知られていないだろう。
 明かりが消えた。しかし日の差し込む明るい車内では誰も気づくことはない。空調のファンも止まっているが、これに気づく人もいない。力行をやめ、ブロワーも止まっているからひどく静かだ。私はこのデッドセクションの通過を懐かしんだ。そうそう、こうだった、この感じ、と思う。むかし水戸線に乗ったとき、デッドセクションを通過したのは夜だった。補助電源でつく蛍光灯一本を除いて明かりが消えるので車内は真っ暗になった。本当にびっくりするほど暗かった。でも誰も何も気にしないし、動じる気配もなかった。補助の蛍光灯一本で読書を続ける人さえいた。
 津幡を出て進路を変えた七尾線羽咋はくいまで地図上は海岸に沿って走る。でも窓外に海を望むことはない。一定の距離があるみたいだ。駅を進めるうちにボックス席がひとつ空いたようで、私のボックスにいた関西人夫妻は移っていった。同じ席に赤ちゃんを連れた若い夫婦も移ってきたので、三世代での旅行なんだろう。
 どうやら私は羽咋を過ぎたあたりから眠っていた。列車は徳田駅に着くところで、終点七尾のひとつ手前だった。乗客はさほど減っていないような気がする。羽咋で降りなかった客は大半が七尾まで行くのかもしれない。
 列車は最後のひと駅にじっくり時間をかけ、終点七尾に着いた。路線としてはもうひとつ先和倉温泉までだが、この列車はここ止まり。この先は接続する第三セクターのと鉄道気動車がダイヤを埋めるらしい。しかしそれも一時間半後、降車客は全員一度改札を出るよう車内の放送でも駅の放送でも促された。
 私のように列車の写真を撮っている人が数人、あとはみなさっさと改札を出てしまっていた。さっきの関西人夫婦は乗務を終えた車掌に和倉温泉まで行くにはどないしたらええんやと詰め寄っていた。確かに彼らにひと駅の乗り継ぎを一時間半を待てというのはなかなか酷だと思った。
 さて私はここから陸路で氷見へ向かう。

 

 JR線の中でも取り立てて大きな観光地もなく、路線長も短い、典型的なローカル線が氷見線だ。富山県の高岡から氷見まで、全長20キロにも満たない路線は、周囲の道路も発達し車での交通インフラが確立され、おまけに新幹線が高岡ではなく新高岡を通ってしまったため、すっかり取り残された印象になった。
 しかし鉄道に乗って旅をするぶんにはこんなありがたい話はない。空気を運ぶような、走らせれば走らせるほど赤字をふくらませる路線は心を痛めるけれど、誰も乗っていない列車の中で景色だけが変わっていく寂寞は、旅の醍醐味のひとつに数えられるのは間違いない。ガラガラの列車に乗り、ラッキーと思う人が私だけではなくきっといるはずだ。
 私は氷見線に、実はその期待を抱いていた。
 それもあって、氷見ではなく途中の雨晴あまはらし駅を乗車駅に選んだ。終着の氷見駅は大きくもあり立派な駅だ。それはそれでいいのだけど、途中駅の雨晴は乗降客のきわめて少ない超ローカル駅である。そして海に近い駅としてその雰囲気、景観も知られている。例えば四国のJR予讃線の下灘駅がそういう駅として有名だけど、18きっぷのポスターを何度も飾ったり、数々のメディア露出を繰り返しているうちに、ひとりでただ列車を待つ駅ではなくなってしまった。むしろ日常的に絶え間なく人が訪れ、駅舎にホームにベンチに人があふれる駅に変わってしまった。ローカル駅が栄えるためには好影響なのかもしれないけれど、ひとりでただ列車を待ちたいタイプの駅だよな、と身勝手ながら思う。
 その期待を持って、わざわざ雨晴駅までやってきた。
 しかし実態は違っていた。雨晴がどこでどう、人に認知されたのか。あたかも下灘駅のようになっていた。
 駅舎には人があふれ、写真を撮っている。下灘駅と違うのはここが有人駅であること。改札が行われ、「ホームに出るには入場券が必要です」の貼り紙がある。私は高岡までのきっぷを買って改札をくぐった。するとホームにも同様、すでにたくさんの人が思い思いに撮影に興じていた。私が、私のイメージとして勝手に想像していた雨晴駅は、どこにもなかった。結果として何のことはない、私も、こうしてたくさんの人であふれる雨晴駅の乗客のひとりと化していた。
 時刻通り二両編成の高岡行きが入ってきた。
 列車に乗ると、さらに氷見線の人気を知ることになる。

 

***

 

 高岡駅の駅ビルをくりぬいて、線路が引き込まれている。そこに低床連接車両のトラムが止まっている。あまりに見慣れない光景に近未来さを感じた。路面電車に縁の薄い関東地方にいるとそれだけでテンションが上がる。その電停がビルの一角をくり抜くように組み込まれている。「越ノ潟」と表示された行き先、ピカピカの電車、東京を中心とした首都圏ではトラムの輸送力じゃ都市規模をまかなえないのはわかるけど、ここ高岡のほうが何歩も先を行っているように感じてしまう。
 万葉線に乗る。
 私は氷見線を降りJRの改札を出て、駅ビル構内を歩いてこの電停に来た。幸い雨は降っていないが、雨が降っていても濡れることなく乗り継げるってことだ。
 電車は私を含め4人の客を乗せて出発した。高岡駅から商店街のあいだの路地をまっすぐ貫き、右折して国道156号に入る。国道の車の流れに混じりながら上手いこと走っていく。
 右折して最初の電停片原町は路上にホームがあるわけじゃなく、道路上に青くペイントされたところに「電車のりば」と書かれているだけだった。車が往来する国道のど真ん中、柵もなくかさ上げもない場所で電車を待つというのはかなり勇気がいりそうだ。だってこれじゃ人がただ車道の真々ん中まんまんなかで立っているだけだ。教習所で習った安全地帯の標識さえ立てられていない。都電じゃほぼ専用軌道なので比較にならないし(しかもすべての電停に立派なホームがある)、私の馴染みのある伊予鉄市内線も確かどんなに狭くてもかさ上げされたホームがあったような気がする。このスタイルをどこかでも見たことがあって(どこだったろう、豊橋市内線かな)、初めて見ただけにそれに衝撃を覚えたことがある。
 沿線には高岡大仏があったり朝市の道があったり高岡城跡があったりする。ああ歩くんだったなあここは、と思った。でも時間が足りない、残念だ。
 電車は国道156号から変わった県道24号の道路真ん中を直進する。そして米島口電停で右折、県道57号に沿うが、ここは道路上には入らずすぐ脇の専用軌道を並走する。名鉄揖斐線美濃町線で取られていたスタイルだ。この県道57号と一緒に、さっき乗ってきたJR氷見線やJR貨物の新湊線と立体交差した。その後も併用軌道(路面)と専用軌道を繰り返しつつ、六渡寺ろくどうじえき駅に着いた。万葉線は線といっているがこの鉄道全線の名前で、路線名として高岡駅からここまでが高岡軌道線、ここから越ノ潟までが新湊港線と分けられている。新湊港線は鉄道として登録されている路線で、独立した鉄道線路として走る。でもここまでやってきた電車がそのまま走るので、特に何かが変わったなという印象はない。
 旧型の路面電車スタイルの車両とすれ違った。新旧車両が軌道線も鉄道線も同じように走っている。あの車両もまたいいなと思う。乗りたかった。
 電車は終点の越ノ潟に着いた。乗客はもう私だけだった。現金しか使えないので400円を払って降りる。ホームが一面、線路が一本だけの小さな終着駅は人も数えるだけしかいない。そろそろ日も暮れようかという薄暗さが寂しさをいっそう助長した。ホームを下りた正面は船着き場で、富山新港の対岸、堀岡まで運んでくれる。無料である。
 古きむかし、ここは富山地方鉄道射水線という路線だった。越ノ潟より先も繋がっていて、新富山まで路線があった。つまり今日乗ってきたこの区間を含めて富山から高岡まで一本の鉄道路線があったということだ。しかしここに富山新港を開いたことで鉄道は分断され、この渡船ができたものの乗客は伸び悩み、富山側の区間は廃止された。それももう40年も前のことで、私も知る断片すらない。
 船着き場には一隻着岸しているがエンジンを止めているのかひどく静かだ。これが渡船のようだ。船着き場の小屋に入ってみる。誰もいない。時刻表を見るとまだ時間がある。カーフェリーではないので車が乗れるわけじゃなく、車は私の頭上高いところに架かる新湊大橋を経由するから、この渡船を利用する人もあまりいないのかもしれない。
 小屋を出てみると、越ノ潟の駅に止まっていた、私が乗ってきた電車はもういなくなっていた。